「生駒軒」。都内に住む、あるいは勤務する人の多くは、この屋号を知っているのではないか。2018年8月時点で、「生駒菜館」も含めのれん分け店は約30店舗存在するが、最盛期には百を超える店があったという。
創業は大正6年のこと。長野出身の児玉彦治氏が台東区松が谷に「児玉製麺所」を開いたことが始まりという(「散歩の達人」2018年1月号特集『みんなの町中華』。交通新聞社/刊。以下「散」と記述)。その後、「生駒軒」という屋号で中華店を開いたとあるが、「何処で」ということが分からない。かつて「生駒軒発生のメカニズム」なるブログが存在し、そこには人形町の店(生駒軒。以下「人形町店」。リンクはラーメンデータベース、以下同じ)が「発祥店」とあったようで、WEB上の多くの記載が人形町の店が発祥とされている。
そのブログは既に見ることができず、本当に人形町店が発祥の店なのか。疑問が湧いてきたので、改めて「生駒軒」発祥の店とは何処? を検証してみたい。
その前に。WEB上では「児玉製麺の麺を使用。生駒軒のれん会が存在」なる記述も多く見られるが
■児玉製麺所は廃業しているので、2018年8月時点では生駒軒(生駒菜館)は他の製麺所を使用している
■生駒軒のれん会の正式名称は「生駒軒相互親睦会」である
ことを確認しておく。
なぜ疑問に思ったか。そのきっかけは前述の「散」の記事である。一部引用する。
「創業者の姉の養子が開いた(生駒軒水天宮)店」。
はて? この記事のサブタイトルは「のれん分けの気になる世界」である。他に光陽楼(青砥。閉店)と代一元が取り上げられている。光陽楼は創業者の姻戚であるし、代一元は本店を取材している。ならば「生駒軒」はどうして人形町店を取り上げないのか? 発祥の店なら当然ではないか? もしかすると水天宮店が創業店直系だから取材したのか? 猛暑の中、訪ねることにした。
■現役最古参の店は?
人形町から歩いてやって来た。大汗だ。飛び込むなり奥さまが「暑かったでしょう」と出迎えてくれた。
ご主人と奥さま二人で営業しているそうだ。奥さまに話を伺うと「うちは54年前(1964、昭和39年)、昨年亡くなった父が創業した店なんです。現役最長? いえいえ、此処にあるでしょう」と見せていただいたのが生駒軒相互親睦会名簿。そこのトップに書かれていたのは「堀船」の店。生駒軒梶原である。「うちより歴史がありますよ。人形町の店? 親睦会の本部があるんですよ」とのことだった。ならば、梶原の店を訪ねるしかあるまい。
■人形町店は「創業者の娘さんが開いたそうです。初代は長野でお店を・・・」
またもや猛暑の中、都電荒川線梶原電停からすぐの梶原の店を訪ねた。
ご主人と奥様、此処も二人で切り盛り。奥さまに話を聞くことができた。「うちが生駒軒現役最古参? ああ、そうかも知れませんね。でも・・・人形町店もあるでしょう? あちらは、初代の娘さんが開いたと聞いています。初代はねえ、元々長野で店を開いていて、上京して製麺所を始めたそうです。そう、児玉製麺所です。もう廃業hしましたけどね。うちは今は二代目で60年になるかしら。主人の体調の関係で昼間だけの営業なの。夕方からは私が餃子とかを店先で売っていますが。
生駒軒は昔は120店くらいあったんですよ。でも、個人店の宿命でね、後継ぎがいないと閉めるしかありません。だから、昔のことを知る人がどんどん減ってね、詳しいことを知っている人は少ないでしょう。うちもいつまで続くか・・・」。
え? 長野で店を? 創業者の娘さんが開いた? 人形町店はやっぱり発祥の店なのか? それでは人形町店に向かうしかない。
その前に。「長野の店」。考えてみれば、大正の頃、中華麺の製麺経験がまったくなく上京して製麺所を始めるというのは乱暴のような気がする。元々長野で店を開いていたという可能性は十分にある。
しかし。中華店とは限らない。有名な話だが、荻窪の丸長(「長」は「長」野)、丸信(「信」は「信」州)は長野出身で、蕎麦店から始めたというから、もしかすれば児玉製麺所も日本蕎麦から始まったかも知れない。その頃、まだまだ中華麺の需要は都内でも極めて少なかっただろうから。ちなみに、長野で生駒軒を名乗っていた(る)のは、長野市鶴賀七瀬中町にあった店で(現在は「煮干しらーめん専門店 麺屋 晴」)、今はもう閉店した。また、長野県中野市にある「生駒菜館」は、「生駒軒相互親睦会」の(おそらく古くからの)会員である。
■「日本橋浜町店もルーツ」?
ある土曜、またまた酷暑の中、人形町店に向かった。混雑しており、あまり話は聞けなかったが、30歳代と思しき女性は「発祥店、ということではないんです。同時期に幾つか店を始めたので、その一つ、ということなんですよ」だそうだ。この話、実は同じ内容でWEB上にインタビュー内容があるから、間違いないだろう。ただし、人形町店の食品衛生責任者は「児玉」姓だった。直系ということに間違いない。
ボクと同じエリアに住むkaitさんという方が、人形町店に出向いた際、RDBでこんな記述を残している。
『会計時にご主人に「こちらが生駒軒発祥の店なんですか?」 ご主人:一応そうなりますね。5店で始めたんで。 私:そうですか。 ご主人:浜町もそうですよ。』
・・・ここで言う「浜町」とは「生駒軒 日本橋浜町店」のことだろうが、浜町の店も残念ながら閉じられてしまった。
■結局はメビウスの帯か?
順を追ってまとめると、
1.現役最古参は梶原の店か? →昭和33年創業。
2.初代は長野で店を開いていた可能性があり、そこが発祥?
3.人形町店は初代の娘さんが開いた?
4.少なくとも人形町店と同時期に5店が創業した?
少し考えればおかしな話で、もし梶原の店が現役最古参であれば、初代が製麺所を始めてから40年以上も経っている。それはいかにも時間が経ちすぎだ。しかし、「散」で水天宮店を「今から54年前(注・昭和39年)、早い段階でのれん分け店となった」と紹介している。となれば、今までの経緯を矛盾ないものとするには、
■昭和33年、梶原店創業。そのすぐ後に、あるいはほぼ同時期に人形町店や浜町の店が開業した。人形町店は経営者の姓からして直系であることに間違いはない。
それでも、やっぱりそれはおかしい。長野創業説は置くとしてもだ、初代の児玉氏が仮に20歳代後半で上京したならば、娘さんが店を開いたのは初代児玉氏がもう70歳前後になっているはずだ。一体、その間、初代児玉氏は、ただ単に40年以上も製麺所だけを経営していたのだろうか。
此処で一応、WEB上にUPするが、もう一軒、気になる店がある。この店で少し進んだ話が見えるかも知れない。
中華店ではないが、生駒軒相互親睦会員で、人形町にある店。そこの掲示されているものは・・・
会員店の木札である。
生駒軒人形町からは少し離れているが、同じ人形町に「とんかつ 生駒」という店があるのだ。無論、生駒軒相互親睦会々員である。店内には会員店の木札が並べられている。ここまで調べたら、もう行くしかない。
「生駒でとんかつ店ってうちだけですよ」。木札の順番は、最初に「児玉製麺所」で次が「生駒軒人形町」。「この順番って創業順ですか?」「いえ、そういうことではないですね。お客さん、生駒関係の方ですか?」「いや、単に生駒軒を食べあるいているだけです」。
ちなみに生駒軒相互親睦会(のれん会)会員店には、「生駒軒」「生駒菜館」以外の屋号の店がかつて存在していた。今はないが板橋にあった「萬福」というお店。他にもある。
、
結局、此処でも発祥の店は分からなかった・・・
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